「死」の和歌
大切な人の死はほんとうにつらいもの。その人を思い涙し、あの日々を懐古する。そしてその時詠まれた歌たちは本当にきれいなのです。また、自分自身がこの世を去る時もしかり。最後の最後、誰を思い、何を考えるのか。今回は死の歌を6つ紹介したいと思います。
山吹の
立ちよそひたる
山清水
汲みに行かめど
道の知らなく
(山吹の花が美しく咲いている山の泉。その底には黄泉の国があるという。泉に水を汲みに行きたいが、生きている私はそこへ続く道を知らないんだ。)
前回の夢の和歌でも紹介した高市皇子が詠んだ挽歌です。大好きな十市皇女を追いかけて黄泉の国まで行ってしまいたい。しかし、黄泉の国に行きたくても道がわからず、夢の中で会うことすらできない。高市皇子の痛切な思いが伝わる歌です。
恋ひわぶと
聞きにだに聞け
鐘の音に
うち忘らるる
時のまぞなき
(せめてあの世で聞いてください。あなたが恋しくてたまらず打つ鐘の音を。一瞬だってあなたのことを忘れることができないんです。)
和泉式部の娘、小式部内侍は若くして亡くなってしまいます。その娘を偲んで歌ったのがこの和歌です。愛宕寺で供養の鐘の音が響き、和泉式部の涙をさそいます。和泉式部といえば情熱的な恋の歌も有名ですが、私は彼女の詠む哀傷歌の方が好きですね。
夕暮は
いづれの雲の
なごりとて
花橘に
風の吹くらむ
(夕暮れの中を風が吹き渡っている。ああ、この風はあなたのいる空を吹いた風ではないだろうか。その昔私が愛したあなたが煙となって昇っていった空を。だからその風が運んできた橘の花の香はこんなにも懐かしく薫るのだろう。)
源氏物語で、夕顔を失った源氏の君が空を見上げて詠む和歌があります。その和歌に着想を得て定家はこの歌を作ったとされています。現代語訳を考えれば考えるほど、この歌本来の広がりとか言葉の響きとかが表現できなくて苦労しました。
色も香も
昔のこさに
にほへども
植えけん人の
影ぞ恋しき
(梅の花は色も香りも昔のままに、変わらず咲き誇っているというのにこの梅を植えたあなたにはもう会えないんだ。)
貫之が、昔よく泊まっていた宿に久しぶりに行った時のこと。どうして長いこと来てくれなかったの?と宿の主人が聞いたときに彼は近くにあった梅を折り取って歌を詠んだそう。この歌が百人一首の中にある、紀貫之の「人はいさ」です。主人もまたこの梅を使って歌を詠み返したそうです。私は、この主人が亡くなった時に貫之は、この「色も香も」の歌を詠んだのではないかな、とどうしても思ってしまうんですね。このように全く別の歌でも歌の背景を知ることで色々なストーリーを作れてしまうのも和歌の好きなところです。
くちなしの
園にや我が身
入りにけむ
思ふことをも
言はでやみぬる
(くちなしの花でいっぱいの花園に入りこんでしまったのだろう。ずっと言いたくて言いたくてたまらなかった言葉を言えずに終わってしまったな。)
くちなしの花は、「口無し」とかけて言葉が出ないとか口下手だとかいう意味を持ちます。これは夭逝の歌人、藤原道信の辞世の句です。いよいよ死にそうだというとき、「ある女性」に送ったとされる歌です。この女性とは誰だったのか。正妻とも、別の恋人だったとも言われていますが、愛を伝えきれなかったことだけが心残りだったと。花園に立ちすくむ道信の孤独な背中が見えてくるようです。
行き暮れて
木の下蔭を
宿とせば
花や今宵の
あるじならまし
(旅を行くうちに日が暮れてしまった。桜の木陰を宿とすると、花が今宵の主人となるのであろうか。)
平忠度は平家の武将でした。源平合戦で討ち死にしたのですが、彼の辞世の句がこの和歌だったんです。血生臭い戦場でこんなにもきれいな和歌が詠まれたことに驚きます。死ぬということを暗示しながらも少しも醜くない。花の中で眠るようなそんな美しい光景が浮かびます。
和歌のプロである歌人が、この世の最後に歌うものですから、辞世の句は本当に印象に残るものが多いです。死の影から逃れることができないから人に情緒があるという言葉に以前、感銘を受けました。死ありきの情緒なんですよね。死を悲しみ、死を恐れる。そして私たちはその姿をけして醜いとは思わない、という言葉もありました。今回の死の和歌も美しいものが多くあったと思います。